
与えると返ってくる|裕子の艶言葉 #83
酒が入れば心も開く。金沢屈指の名門クラブに在籍し、現在は木倉町でワインバーを経営する裕子さんの酸いも甘いも知り尽くした人生談義。酒席で老若男女の心の声に耳を傾けてきた夜の蝶ならではの言葉は、まるで美酒のごとく身体の奥まで沁みわたります。
「与えると返ってくる」と、よく言われます。
「自分だけ‼ ちょうだい‼ 欲しい‼」と、地獄の餓鬼(※)のような人には、誰も寄りつかなくなり、やがてひとりぼっちになっていく。実際、その通りだと思っています。
※ 仏教における「餓鬼」とは、生前の強欲さや物惜しみ、嫉妬といった限りない欲望の結果、餓鬼道に落ち、永遠に飢えと渇きに苦しむ存在を指します。
ただ、あたしにはどうしても拭いきれない、ひとつの疑問があります。「返ってくる」ことを前提として与えるって、どうなんでしょうか?それって、ものすごく見返りを求めた行動ですよね?
しかも、その見返りは、自分のほうがより大きなものを得ようとしているように感じることが多い。それって、「ちょうだい‼ 欲しい‼」の人と、あまり変わらない気がするのです。
大きな見返りを求めていると、その欲はどうしても、うっすらと見え隠れします。透けて見えます。
商売で商品を販売し、その対価として金銭を受け取ること。それは「より多くの見返り」ではなく、「対価」です。どちらかが得をするのではなく、同等のものが循環している状態。
けれど、そのうっすら見え隠れする欲は、相手と同等であろうとせず、自分が少し得をしようと目論んだうえでの「与える」です。「足りない‼ ちょうだい‼」と地獄で欲し続ける餓鬼と、何も変わりません。
そのような欲を源泉とした「与える」には、必ず相手への「お返しの期待」が込められています。「これだけしてあげたのだから、お返しがもらえるはず。良い評価をしてもらえるはず。良い人だと言ってもらえるはず。より大きなものが巡ってくるはず」
また、商売においても、提供する商品に対してあまりにも大きすぎる対価を求めすぎると、それは「転売」や「ぼったくり商売」と呼ばれるのだと思います。
いつも比喩に使うのですが、赤ちゃんが泣いて、お母さんが抱っこしてあげるとき。「よしよし、抱っこしてあげたんだから、老後は世話してくれるはず」なんて、思わないはずです。見返りを期待しない、純粋な「与える」とは、そういうことだと思っています。
湧き起こる愛情によって、自然と心や身体が突き動かされる行動。ただただ無償の愛情には、見返りは存在しません。
とはいえ、あたしは仕事の中で、ひとつのゲームとして「こうしたら、あんなふうに良くなっていく」という策を立てることはあります。攻略していくゲームです。でもそれは、「対価」を受け取るための、同等の立場でのゲームだと思っています。
決してプライベートで「お返しが欲しい! だから、与える! ちょうだい‼」とは思いません。なんなら、お祝いしたくてしたのに、相手からお返しされてしまう「内祝い文化」なんて、無くなればいいとすら思っています。
だって‼こっちは「おめでとう」って思ってプレゼントしたんだもん‼なんでお返しされるの‼……と、いつも思っております。(もちろん、日本の奥ゆかしさを表す文化のひとつであり、その良さがあることも承知の上です)
よく言われる「たらいの水の法則」も、自分のほうに水をかき集めると、水は奥へ逃げていく。けれど、奥へ水を押し出すと、たらいに沿って回り回って、自分のところへ戻ってくる。まさに「与えると返ってくる」の例えです。
その例え自体は素晴らしいのですが、結局のところ「自分に返ってきてほしい」「ちょうだい‼」という欲が、源泉になっている気もしてしまうのです。
あたしにとって理想の例えは、雨が降り、土が濡れ、山から水が流れ、川となり、海となり、その水蒸気が空へ舞い上がり、また雨となって降る――そんな自然の循環です。
水は、高いところから低いところへ流れます。
あたしは低い位置から、高い位置におられる皆さまから流れてくる水を、そっと受け止める気持ちで。本日もSankakuにて、ご来店をお待ちしておりますね♡
艶小噺
人とのご縁の素晴らしさを、言葉で語るなんて野暮かもしれない。けれど、触れ合える皆さまとの毎日を、奇跡だと思って暮らしております。
2025年。そんなことを、さらに深く体感する一年となりました。
どうぞ、良いお年をお迎えくださいね。今年出逢ってくれた皆さまに、大きなラブを込めて。

