
二度と行けないあの老舗で〜チューと加登長|MOcA Diary カレーってからいですか #15
金沢・石引商店街のカレーマスター・モカさんが、カレーを仕込むかたわらでお送りするエンタメ系ゆるコラム。
たとえ常連じゃなくても、いつも店の前を通り過ぎるだけで行ったことがなかったとしても、街の風景のようにごく自然に当たり前のように存在した老舗が無くなると「あ…」とショックを受けるもんです。昨年は錦町の町中華「チュー 錦町店」(1971/昭和46年創業)と寺町のうどん店「加登長 寺町店」(1959/昭和34年創業)が閉店。どちらも老舗なのでご高齢での引退と思われます。
文献によると、金沢・石川県の町中華の元祖「チュー」は1946(昭和21)年に香林坊にあった大工小屋を間借りして誕生。1961(昭和36)年に刊行された「石川県麺業史」によると、チューは「金沢で最初の中華そば専門店」と書かれています。創業したのは水野忠(ただし)さん。戦前に丸越百貨店(今の金沢エムザ)で食堂を経営していた水野さんが中国人の料理人から中華料理のレシピを教わったことがきっかけだったそうです。「チュー」という店名は「中華」という意味じゃなくて水野忠さんのあだ名「チューさん」から取っているとか。ちなみに忠さんは子年(ネズミ)生まれ。
「チュー」は弟子たちが次々とのれん分けしただけでなく、「千龍」という町中華グループと合併。チューがライバル店を買収したわけじゃなく、千龍の経営者とチュー西町店の店主が富山県五箇山の同郷ということで意気投合しての合併でした。そして最盛期の昭和50年代には45店舗まで拡大。しかし1967(昭和42)年に創業した「8番らーめん」は、現在国内124店舗、海外176店舗、合計300店舗も展開して「石川県民のソウルフード」と呼ばれているのに対し、「チュー」は店主の高齢化や後継者不足で現在は10店舗まで減少しています。SAVE THE チュー!
うどん店「加登長」は「チュー」よりもさらに昔、1897(明治30)年に小松駅前にて開業しています。創業したのは小松市の豪農の家に生まれた和田長平。当時、大阪で商売を学んでいた和田氏は、北陸線が福井から小松まで繋がることになり「これは小松に人が集まるぞ〜」と予言し、大阪からうどん職人を引き連れて小松に帰郷。店名の由来は「加賀(金沢)のトップに登って一旗上げる和田長平」を略しての「加登長」。しかし予想外にも北陸線の終点は小松ではなくて金沢まで伸びることに。和田氏は小松店を半年で畳んで当時の金沢の中心地・近江町に「加登長」を移転します。
ちなみに同じ老舗うどん店「お多福」は「加登長」の店員が独立して1910(明治43)年に創業しました。ライバルではなく兄弟店のようなものです。加登長は最盛期の昭和50年代には県内に34店舗、お多福は69店舗まで拡大し、石川県のうどんシーンの頂点を席巻していましたが、こちらも店主の高齢化や後継者不足で減少しています。今うどんで外食といえば丸亀って浮かびますもんね…。
僕がお店を継いだ20年前には石引・小立野にもまだお多福、加登長があり繁盛店でした。石引商店街に40年以上前に8番らーめんが進出してきたけどすぐに撤退したのは地元のお多福派、加登長派のお客さんを取り込めなかったからという都市伝説もあります。
さらに昨年は1975年創業の小立野の老舗町中華「味来軒」が50周年で引退。北國新聞の記事では、『15歳で料理の世界に飛び込み、60年余り中華鍋を振るった店主の伊並一夫さん(77)は「続けたかったけど、筋力が落ちた。ここが潮時」と、ほっとした表情を見せた』と紹介。店主とはよく八百屋さんで顔を合わせてたけど、いつも大量のもやしやネギやキャベツを買ってるのを見かけて「繁盛してるんだなあ」と感心したもんです。ありがとうございました。お疲れ様でした。
石引の大学病院前にあった「加賀の味・そば房 源八」も昨年いつの間にか引退されていました。20年以上前から老舗感がにじみ出ていたお店だったんでおそらく創業50年前後だと思いますが、こういうお店の店主たちのインタビューってしておいた方がいいよなあ。
自分が飲食店をやっているせいか、店主がご高齢で引退されるお店を「潰れた」と表現することに違和感があります。何か別の言葉ないですかね。「店仕舞い」とか「終店」とか?お店の最高の幕引きの仕方は長年頑張って悔いなく「やり切った」と納得して引退することじゃないでしょうか。お疲れ様でした。



