
Kan Sanoの音楽的ライフ【観ずる日々】第69回:記憶という不確かな地図
(↑ChatGPTにタイトル決めてもらった)
金沢市出身のキーボーディスト/プロデューサー・Kan Sanoが綴るエッセイ。新世代のトラックメーカーとして支持されるアーティストの音楽的ライフを覗いてみよう!
先月のコラムで、実家にあったアップライトピアノはYAMAHAだと書いたが、どうやら誤りだったらしい。母からDMで「うちのピアノKAWAIやで」と教えてもらい判明した。自分の記憶ってほんとにいい加減なんだなと思った。
どうでもいいことをすぐ忘れるのは構わないけど、まあまあ大事なことまで年月とともに曖昧になっていくのは困ったものだ。ちゃんと覚えていたはずの記憶が、気づかぬうちに少しずつ形を変えて、ある日ふと「あれ? そうだったっけ…。」となる。
昔作った曲を久々に聴き返すと、記憶とのズレに戸惑うことがある。「この曲、こんなアレンジだったっけ?」「こんな歌い方してたのか…」。なかにはどういう気持ちや意図で作ったのか忘れてしまったものもある。当時は相当な情熱を注いで作ったはずなのに。ほんとにいい加減だ。
ライブで何年も演奏し続けているレパートリーも、久々にオリジナルを聴き直すと、自分の中で少しずつ変化していたことに気づかされる。ライブで演奏する曲を覚えるのは、体の使い方や運動を何度も繰り返すことで自分に記憶させる作業なので、記憶したものが自分にとっての正解になっていく。その記憶がいつの間にか少し違うものになっていてもなかなか気付かない。
月に一度とはいえ、コラムとして何年もの間自分の心境を継続してここに記録できてるのは、日記を書いたことのない自分にとってなかなか貴重な経験だ。ぜんぶ読み返せば、自分の中で変化した部分としてない部分がよく分かるはずだ。まだ読み返したことはないけど。
先月からインスタのストーリーズで毎日「今日のひと言」動画をアップしている。やや飽きつつあるが大した苦も無く、わりと楽しみながら1ヶ月継続できたので、動画でボソボソ喋るのは文章を書くより性に合ってるのかもしれない。
(↓以下はChatGPTによる今回のまとめ)
それでもやはり、記憶の変容に抗うためには、記録するしかないのだろう。言葉にし、残す。それがたとえ不完全であっても、そこに刻まれたものだけが、やがて確かな自分の地図になっていくのかもしれない。